アートは寛容性を養う?

2014年に城崎国際アートセンター(KIAC)ができたとき、そこで創られる作品は、ぼくにとっては、見るもの、聞くもの、本当に変なものばかりでした。

事前に平田オリザさんから、アーティストは本当に変なことに人生をかけているような変な人たちが多い、と聞いてはいたのですが。

あるとき、平田オリザさんから「今までに見た中で一番変なのはなに?」と聞かれて、

「ダンサーが手を上げて、30分動かない。

よく見ると手がぴくぴく動いている。

これをダンスだって。

ぼくは驚いて、正直、怒りすら覚えました(笑)」

ところが数年前、別の人のKIAC滞在の成果発表を見たときのことです。

その人は全身に力を入れて、ゆっくりゆっくり、楕円を描くように動いていきます。

何が起こるのかと、こちらも全身に力を入れて見ているのですが、何も起こらない。

そのうち鼻水も出すし、汗も出して、一周回ったとき、ふっと力を抜いておじぎをされた。

あ、終わったんだ」

でも、このときは腹が立ちませんでした。

変だとも思いませんでした。

何だか分からないけど、何かを表現しようとしているんだろうな、ということは分かりました。

あの腹が立ったときと今回の間に、ぼくになにが起こったかと言うと、

多分、ぼくの中に寛容性が養われたのだと思います。

アーティストは、もちろん、ぼくたちが当たり前に知っている(と思っている)ことをより深く、より感動的に歌い上げる、ということもあるでしょうが、ぼくたちが知らないこと、知っていても見ていぬふりをしていること、「あたりまえ」に対する異議などなど、「異質性」を持ち込もうとします。

KIACの誕生以来、そんな異質なものをいっぱい見てきて、慣れちゃって、「いてもいいよ」と。

それがぼくだけでなく、まちにそういう人たちが増えてくると、変わった人たちが入ってきやすくなります。

変わった人たちがただたくさんいるだけでは、ただの雑居ビルにすぎませんが、その人たちが交わり始めると、異なったもの同士が出会うことは創造性とイノベーションの基礎になりますので、

このまちは、異なったものを分断に持ち込むのではなくて(最近の政治的言説は、そんなのばっかりですが)、創造性やイノベーションにつなげいくまちに育っていく可能性があります。

他方で、多様性はとても厄介です。

みんな違うので、合意形成を図るのも大変。

つき合うのに忍耐力もいります。

多様性を生かすにはスキルが必要になります。

それが、コミュニにケーション能力であり、対話する力であり、とりあえず相手の言葉に耳を傾ける能力だと思います。

あるいは、人と協同して何かを生み出す力も不可欠です。

幸い、豊岡では、小学校1、2年生全員が演劇的手法で非認知能力を高めるワークショップを受けています。

市の教育委員会は、非認知能力の中でも、特にやり抜く力、人と協同する力、自己をコントールする力を重視しています。

さらに、すべての公立小学校6年生と中学校1年生、市内の高校生は、演劇的手法でコミュニケーション能力を高めるため授業を受けています。

もちろん、芸術文化観光専門職大学では、対話の重要性が強調され、学生たちは、コミュニケーション能力を高めるための演劇ワークショップを必須で受けています。

豊岡は、演劇の授業を受けた人たちが年々積み重なっていくことによって、そういうまちにたどり着く可能性があります。

「深さを持った演劇のまちづくり」の目的地が、おぼろげに見えてきたように思います。